北朝鮮渡航記 その1

 199□年の夏、草野球の帰りにのせてもらった車の中で編集のKさんが切り出した。
「お前、元撮影だよな」
「そうですけど?」
「北朝鮮に行ってみたくない?」
「はあ?」
 私は返答に詰まった。アニメの撮影と北朝鮮をどう結びつければよいのか分からなかったからだ。
「実はな──」
 Kさんが言うには、北朝鮮の首都平壌に国営のアニメーションスタジオがあり、そこが外貨獲得のため日本と仕事をしたがっているという。何でも前に北朝鮮の映画祭みたいなイベントが日本で行われた時にKさんが力を貸したことがあって、その時のつてで打診されたとのこと。
 ただ、その国営アニメーションスタジオがどの程度の実力があるのか全く分からないので、一週間ほど業界人の視察団を数名送ることに決めたそうな。できれば知り合いの方が旅も楽しかろうということで私に声をかけてくれたとのこと。しかも旅費滞在費は向こう持ちだそうだ。うわあ、すげえや!
 しかし私は悩んだ。北朝鮮には行ってみたいのはやまやまだが、行くと先の仕事をキャンセルしなきゃならない。フリーの演出なので休みはそのまま無職につながる。視察団のスケジュール通りに休んだら翌月はノーギャラになってしまうことも分かった。
 でも行くことに決めた。
 なぜなら、こんなにおいしい条件で、いやいや、アレな国の業界人(ゆうじん)たちと友好を深められるチャンスが来る日は今後千年生きても無いと思ったから。実際あれから無かったし。
 で、行く前に友人と打ち合わせをした。この友人は北には行かない。
 どういう打ち合わせかというと、
「まず、俺が帰ってこれなかった時ことを考えよう。きっとお前宛に手紙が届くはずだ。その場合は手紙の文面なんか見なくていいから。たぶん──僕は元気でやってます。ここはなかなかいいところです──みたいな内容だから」
「じゃあどうすればいいわけ?」
「切手を湯気ではがして裏を見ろ。きっと──助けて──と書いてあるはずだ。その場合は警察でも外務省でもどこでもいいから助けを求めてほしい」
「ふむふむ、なるほど」
「次は俺は帰ってきたが、どうも様子がおかしい場合だ。そういう時は俺に話しかける時に池端くんと声をかけてくれ。お前はいつもさん付けで俺を呼んでいるので、くん付けで呼んでも俺が普通にしている時は、その俺は偽物だ。その場合は警察でも外務省でも(以下略)」
 という打ち合わせだった。ごめんね北の人。まあアレな国なので緊張しますよ。
 それから色々あって成田空港から北京空港へ。北京市内で一泊していよいよ北朝鮮向かうことになった。案内をしてくれるのは在日の方々。
 平壌への便は週に二回しかないらしい。
 で、乗ったのが朝鮮民航機。機種は私には分かりませんが中型の旅客機でした。
 座席はビジネスクラスで上から2番目のクラスのチケットをとってくれた。わーい。エコノミーにしか乗ったことがないのでわくわくしながら乗り込んだら、どこも同じ座席でクラスをカーテンで仕切っただけだったりする。
 うーむ……。
 で、真夏なのにものすごく蒸し暑い。クーラーはどうしたのだろうと思ったら、飛び立つまではスイッチは入れないとのこと。どういうビジネスクラスなんだよ。まあ、ただなので文句も言えんが。
 でもたまらなく暑い。どうしたものかと目の前の座席の背中を見たら、ポケットに団扇(うちわ)が入っている。冷房は団扇かよ。
 後ろの方の席を見てみたら、お客さんは全員パタパタやっている。
 なかなかのカルチャーショックだ。
 そんなこんなで離陸して、水平飛行に入った頃、機内がだんだん涼しくなってきた。でもこれってクーラーのせいじゃなくて、上空の気温のせいで涼しいのでは?
 腹が減ったなあと思っていたら、昼食の機内サービスが始まった。出てきたのはサラダとパン。サラダは野菜とトマトをスライスしたもので、それが大きな皿にのせられてラップでくるんである。なんだかとても機内食とは思えないものすごく家庭的なしろもの。量は少なかったけど味は普通でした。
 食糧難の話は聞いていたが、この先大丈夫なのだろうか。
 そんなこんなで未知の国に対する大きな期待と同じ量の不安をのせて朝鮮民航機は東へ飛ぶのであった。

 つづく


北朝鮮渡航記 その2

 平壌空港に滑り込むように着陸した朝鮮民航機がタキシングしている最中に窓の外を見ると、遠くの茂みから対空機関砲の銃身が顔を出していた。
 うーむ。
 この国が準戦時体制だということが嫌でも思い出される。朝鮮戦争は和平の結末をむかえたわけではなく、現在は長い休戦状態なのだ。
 入国審査を終えた我々視察団六人と案内役の在日の方々三名が空港の外に出てみると、四台の車が迎えに来ていた。一台は黒塗りの古いベンツ。他は日本車だった。私は工業高校の自動車科を卒業しているのだが、車には全く興味がないという不幸な人間だったので日本車の車種の見分けは全くつかないのだ。
 ベンツには団長役のKさんと在日の方のリーダーのMさんが乗り、私を含む他の人たちは日本車に分乗して出発した。
 平壌市内までは舗装はされことすれ畑の中を貫いたような田舎道だった。しばらくの間見るものと言えば畑か田んぼばかりである。さすがに行き来する車の数は少ない。なんだか故郷の北海道みたいだ。
 市内が近づくと道が急に広くなり車線も増える。最初に目についたのは巨大な凱旋門。なんでもパリの凱旋門よりでかいそうだ。私たちの乗った車はその下をくぐって市内に入っていった。凱旋門をくぐるということは歓迎の意味を示しているという。いわれてみれば我々以外の車は門の外側の道を走っている。歓迎されて悪い気分はしない。
 凱旋門をくぐってまもなくすると宿泊するホテルについた。市内では有名な高級ホテルだとのこと。平壌駅が近いらしいので暇が出来たら行ってみようと思う。
 ロビーで部屋割りが発表された。私はIさんと同室だ。Mさんから今後の予定が発表された。今日はこの後は夕方から食事をし、アニメスタジオ訪問は明日以降になるそうである。
 それぞれがボーイに案内されて部屋へと向かう。
 部屋に入りボーイがさった後、私とIさんはテーブルやベッドの下を探りはじめた。盗聴器の有無を調べるためである。Iさんはこの旅行で初めてお会いしたかたで、それまでほとんど会話らしい会話をしていない。そんな二人がこの作業を事前の打ち合わせもなしにやっているところが今考えてもすごいと思う。BGMはミッション・インポッシブルを想像してください。
 二人の男は無言で室内を回り壁を叩いたり、ものをひっくりがえしたりする。
 ざっと室内を調べたところでIさんはサイドテーブルの電話の受話器のキャップを回しはじめた。私は表に出て廊下を歩測する。
 部屋に戻るとIさんは分解した電話機を元に戻し終わったところだった。
「電話に仕掛けはないようです。外はどうでした」
「歩測してみたのだが、部屋の壁に不自然な40pくらいの厚みがあります」
「うーむ。人一人なら入り込めそうですねえ」
 なんてことをけっこう真面目にやった。まるでスパイ映画の登場人物のようである。いい大人がよお。でも事前にいろんな資料を読んでいたので怖かったんだよ。ホントに。
 さて、夕食は皿に薄く盛られたご飯とプルゴギ、キムチにスープという実にあっさりしたもの。北朝鮮料理を期待していたのだが少々残念ではある。しかも、ご飯のおかわりは無しだ。
 食事をあっというまに平らげてしまい、全員が手持ちぶさたになってしまった。
 するとMさんが、
「最上階に回転ラウンジがあるのですが、そこでお酒でもどうです?」
 そりゃあいい、夜景でも楽しみながらくつろごうということになって全員エレベーターに乗り最上階に向かった。私はあまり飲めない方なのだが、何もすることがないので行きました。一人で部屋に残るのは怖いし。
 回転ラウンジは広くムードも良かった。
 でも夜景がない。というか見えない。外にあるほとんど全部の建物の明かりが消えているからガラスの向こうは真っ暗。何にも見えない。見えるのはガラスに映っている唖然とした自分の顔だけ。思い切りガラスに顔を近づけて暗闇に目が慣れてきてやっとビルのシルエットが見える。夜と言ってもまだ8時くらいなのにまるでゴーストタウンのようだ。なんでもエネルギー節約のために必要最小限の明かりを残して一般のアパートなんかは消灯しなければならないらしい。街のネオンサインなんかはもってのほかだそうだ。そこまで追い込まれていたか北朝鮮。
 いったい何のための回転ラウンジなのだろう。そもそもエネルギーを節約するなら回転させなきゃいいのでは?
 部屋に戻っても真っ暗な町並みの風景が頭にこびりついて離れない。
 明日のスタジオ訪問は大丈夫だろうか?
 ほの暗い不安を胸に平壌の夜はしんしんと更けてゆくのであった。

 つづく


北朝鮮渡航記 その3

 さて翌朝の朝食はスクランブルエッグにおかゆと牛乳という朝食らしい朝食。確か海苔もついていたっけ。量は朝食として普通なのだが、私にとっては少ないのでどうしても腹が減る。なんとか北朝鮮料理を食べたいものだ。
 それからスタジオ視察なのだが、翌日に延期になったとのこと。なんてこったい。
 腹ごなしにその辺を散歩してみようということになり、日本人だけでホテルの外に出かけた。Mさんにはどこに行ってもどこで写真を撮ってもいいと言われたが、写真はともかく遠くまで出かけるつもりはなかった。だってなんだか怖いんだもの。誰かに尾行されているみたいで。考え過ぎか?
 怖いといえば、前日、Mさんがパスポートを預からせてほしいというので全員が渡してしまっていた。だからこの日は全員パスポートを持たずに出かけていたのだ。大丈夫だろうかパスポート。
 ホテルの外には大型バイクが一台停まっていた。このバイクはこの後も連日同じ場所に停車していたのだが、運転しているところを最終日まで誰も見たことがなかった。我々の考察では、我が国でもこのくらいのバイクがあるもんね、というところを外国人に見せるために置いてある展示品なのではないかということで意見の一致を見た。エネルギー節約のために夜に部屋の明かりを消す国だもの、そのくらいのことはやりかねんと思った。
 想像してみてください。バイク係の役人がホテル前に毎日バイクを持ってきて、夜になったら持って帰るという姿を。
 うーむ。すごいのか、暇なのかよくわからん。他にすることがないのだろうか。
 さて、ホテル前の散策だが、どうも街の様子が変だ。何が変なのか考えながら歩いていたら気がついた。
 まず、私らより背の高い人に出会わない。みな小さい。私は175pあり、仲間もだいたいそのぐらいだ。日本に戻ってからこの国関係の本を読んでいたら、平壌からの脱北者で172pの方が、元の生活区域で十何番目かの長身だったという内容があった。
 だから私らは巨人とはいかないまでも充分に長身。頭ひとつ抜けてる感じだ。何だか不思議な気分である。プロレスラーが街を歩くとこんな感じかもしれない。
 それから見かけなかったのは、太った人と眼鏡をかけた人、それから髭の人。
 私は眼鏡で髭なので歩行者の中で目立ってしょうがない。
 親子連れとすれ違った時に目を丸くした子供に指さされました。おいおい外国人が珍しいか。珍しいよな。
 そして変なのが車がほとんど通りかからないということ。お盆の都内の早朝より交通量が少ない。首都だろここは。
 散歩もそこそこにホテルに戻ったら、Mさんたち在日の方々が金日成像に参拝しに行くとのこと。何でも在日の方が北に入国した場合、必ず参拝しなければならないらしい。建国の英雄なので敬意を表さなければならないのだ。そういえば前日在日の方に、金日成と金正日だけは呼び捨てにしないでくれ、もし名前を口に出す場合は必ず将軍とかなんだとか敬称をつけてくれと念を押されたっけ。私らはめんどうなので滞在中は指示代名詞で押し通しましたが。
 よろしかったら一緒にどうぞと言われたので、もちろん行きました。我々外国人は参拝をしなくてよいそうだ。
 さて、例の銅像は小高い丘の上にあった。
 この丘はのちに銅像のモデルが亡くなった時、参列者の人々が果てしなく続く映像や写真をご覧になった方がおられると思うが、あれは写真に写っている所までしか平地部分がありません。写真に写っている参列者たちの最後尾のすぐ外側、フレームのすぐ外側が階段になっている。だから想像しているよりは広くないです。そこそこの広さって感じ。
 片手を挙げた例の銅像はまあまあの大きさだった。元々は金箔を貼っていたらしいが、中国からの「派手すぎて品がない」という忠告で、はがしてしまったらしい。だから銅色。手垢のついていない十円玉のような色でした。
 で、Mさんたちの参拝が終わったあとで銅像の前で撮影しようということになった。
 先輩のSさんに、「オレを撮ってくれ」、とカメラを渡されたので、どの辺から撮影しようかなと迷っていたら、
「早く! 早く!」と声がする。
 慌ててファインダーのぞき込んだらSさんが銅像と同じポーズを作って立っているではないか。あのー、建国の英雄の前でそれはまずいんじゃあ。戦前の日本なら天皇陛下みたいな存在だろう。いや、この国ではそれ以上かもしれない。
 躊躇していたら、
「いいから早く! ほら!」
 はい、先輩には逆らえません。再びファインダーをのぞき込んだら、銅像の奥の方にカービン銃を持った警備の兵隊さんが何人か立っているじゃないの。まさかいきなり撃っては来ないだろうけどびびったぜ。
 さっさと撮影したあとで、皆で集合写真を撮りました。
 本日の行事はこれで終わり。となると楽しみは飯だ。北朝鮮料理が待ってるぜ、と期待していたら、案内されたのはホテル近くの日本食の店。といっても高級和食ではなくて駅前の定食屋みたいな所。うどんを食べたのだが、味と量はごく普通。何でも日本から出店している店で料理人もそこから派遣されているらしい。
 昼食はこんなんだったので、いやでも夕食に期待がかかる。
 で、夕食は皿に薄く盛られたご飯とプルゴギ、キムチにスープという前日と全く同じメニュー。北朝鮮料理はどうなっとるのじゃあ!
 まさか翌朝の朝食も?
 何だか嫌な予感がする……。

 つづく


北朝鮮渡航記 その4

 さて翌朝の朝食であるが、スクランブルエッグにおかゆと牛乳、それから海苔という昨日と全く同じもの。この時は何だか軽い目眩を覚えたよ。
 結局、滞在中は朝飯と夕飯は判で押したように同じメニューの繰り返しだった。夜はスクランブルエッグがプルゴギになるという。これを数日繰り返すと曜日の間隔がなくなってくる。昨日の食事内容も分からないのがボケ老人だとすると、何を食べたかは明確に覚えているが、それが何曜日だったのか判別がつかなくなるのは何中年と呼ぶのだろうか。
 我々はデジャヴュを五日連続で体験したようなものなのだ。
 普通は食事の時間というものは楽しみというか、一種の娯楽であるはずだ。何たって人間の持つ三大欲求のひとつなんだから。なのにここでは義務に近い。楽しくない。
 時計を見て飯の時間だと分かると我々の間に、やれやれ……、という空気が漂う。なんというか食事という行為が、死なないためにとりあえず栄養を口に入れているという、すごく消極的な行動になってしまった。
 昼飯だけが毎日違う内容だったのだが、朝と夕のインパクトが強すぎて、10年以上たった現在では昼食の印象が全く残ってません。

 さて、朝飯の終わった我々は、北が用意してくれた一台のベンツと三台の日本車に乗り込んで、アニメスタジオに出発した。
 このスタジオがすごかった。鉄筋コンクリートの四階建て。
 えっ? どこがすごいんだって?
 すごいですよ。だってこのビルはこのスタジオのアニメのスタッフがみんなで建てたんだから。土木建築の素人が。
 Mさんの説明によるとスタジオのスタッフで設計図を引いて、これだけ資材をくださいとお上に提出すると、しばらくして認可が下りて資材が手に入るらしい。で、スタッフ総出で穴を掘り(たぶんほとんど人力。これ以後の作業もおそらく人力)、土台を作り、鉄筋を組んで、コンクリートを打って建設したという。すげーなー。
 入り口ロビーには偉大なるエライ人親子の全身肖像画が壁にでかでかと描かれていた。このあとあちこちの部屋を案内してもらったのだけれど、どの部屋にも親子の写真が額に入れられて飾ってあったなあ。
 このビルの屋内が面白かった。床の一部が何となく盛りあがっていたり凹んでいたり、配管が狂っているためなのか壁に湿った跡がついていたりする。階段は一段ごとに微妙に高さが違っていたり傾いていたりするので、登っていくうちに何だか身体がふらふらとしてしまう。
 素人建築のご愛敬というか、なんだかほほ笑ましかったです。まあ素人と言っても、仕事のない時のスタッフはあちこちの工事現場や建築現場にかり出されているみたいなので、セミプロと言った方がいいかもしれない。
 自分たちで作り上げたスタジオなのでそれは愛着があるそうな。だろうなあ。
 まあ、建物はともかく設備はそこそこそろっていて、大勢のスタッフが働いていました。
 ひととおりスタジオを見学したあと、試写室でこのスタジオスタッフが作ったアニメ作品を見せてもらった。
 この国の昔話を題材にしたファンタジーとフランスとの合作作品、そして『ドラ○ンクエスト ○イの大冒険』
 私が一番良かったなあと思ったのはファンタジーだった。地味だがていねいに作られていて、このスタジオの作風をかいま見られたような気がする。
 でも一番インパクトがあったのは『ドラゴ○クエスト ダ○の大冒険』
 これはこのスタジオの首脳が営業をしに来日し、○映動画を訪問した時に、いきなり本番を任せるのは難しいということで、テストフィルムを作ることになったその映像。
 東○動画から絵コンテと設定を北に持ってきて、日本人の手を借りずに作ったものだった。
 だからコンテの解釈の誤解にあふれている。
 たとえば、登場人物が驚いて「はっ」とした時の集中線。普通なら早いタイミングでパカパカさせたりするのだが、この映像では主人公に向かってたくさんの線がぬるーっと動いてゆく。すごくゆっくり。
 他にも色々な誤解があるのだが、これは無理解とかミスというものではなく、一部の日本のアニメの映像表現が特殊で世界標準ではないからだと私は思った。だって集中線というのは日本の漫画の表現手法の借用だもの。だから日本の漫画を読みこなさない限り絶対に分からない映像表現だと思う。
 だからこのことだけでこのスタジオを非難する必要はないと思う。でもぶっちゃけすごく変で笑っちゃいましたが。ごめんね北の人。
 そのあとはメインスタッフと歓談の後にこのスタジオに別れを告げました。
 こちらでは監督という呼称はなく演出と呼ぶらしい。監督という言葉には人の上に立つイメージがあるからだと演出の方が言ってました。感覚としてはスタッフ横並びということらしい。
 帰りの車に乗り込む時にスタジオをふり返ったら、スタッフたちが総出であちこちの窓から手を振ってくれました。屋上からも振ってくれていたなあ。
 この人たちには幸せになってほしいなあ。国は違えど同じ仕事をしている人たちだもの。色々と苦労しているみたいだし。

 ホテルに戻って夕食のあと、編集のKさんの部屋に日本人だけで集まって今日の印象を語り合った。
 そこで分かったのは、今日働いていたスタッフは我々訪問者のためにやらせで作業をしていたということ。
 仕上げではそれぞれの机の上に絵の具のビンを一本だけ置いて色塗り作業をしていた。普通は数え切れない数のビンを用意しておくもの。
 撮影ではシャッターは押していたが、マガジンのポッチ(すいません、名称を忘れてしまいました)が回っていなかった。マガジンにフィルムが入っていればシャッターを押すとポッチが回転するんです。実は私が撮影時代にはこれと同じことをしていました。仕事が暇な時に見学者が来ると撮影しているふりをするという。
 きっとスタジオではあの時点で仕事がないのだろう。経済状態が思わしくない国内だけではスタッフに与える仕事量を確保できないのだと思う。仕事がなければスタッフたちは建設現場や農場に派遣されるのかもしれない。
 だから日本の仕事が欲しいらしい。そうすれば外貨が獲得できてスタッフに仕事を与えられるという一石二鳥なわけだ。
 あのスタジオがおかれた状況はほとんどが想像だが、そんなに外れてはいない気がする。
 この世界情勢の中で大変だろうけど心からのエールをお送りしたいと思います。

 つづく


北朝鮮渡航記 その5

 さて、スタジオ訪問が終わり、あとは余談ばかりである。
 残りの日々、我々はあちらこちらを観光した。訪問が終わったならすぐ帰れという声が聞こえてきそうだが、朝鮮民航は週に二便しかないので、帰りはもう少しとあとなのだ。
 視察団の中には私の知らない方がおられたのだが、滞在中にうち解け、仲良くしていただいた。
 相変わらず黒いベンツ一台と日本車三台に分乗し、我々は和気あいあいと平壌市内やその周辺を回った。
 その中で感心したのが、映画の撮影所。
 市内からしばらく行った所にあり、敷地は広大だ。
 この国はアレな事情で国外(そと)での撮影が難しい、だから敷地内にでかいオープンセットを作っているとのこと。
 どんなセットがあるかというと。
 戦前の浅草。同じく戦前の満州の市街地とソウルの学校。東ヨーロッパの田舎町などなど。
 セットの駅には長いレールがひかれていた。このレールの上をちゃんと本物の汽車が走るそうだ。
 偉大なる親子の子の方が映画好きなので、この国の映画界はかなり優遇されているみたいだ。

 それから、いつもの黒いベンツなのだが、これはエライ人専用で、団長格である編集のKさんと在日の方々のリーダーだったMさんしかのせてもらえない。
 私はどうしても乗ってみたいので、おそるおそるKさんに頼んでみた。
 すると、あっさり「いいよ」と言ってくれた。
 拍子抜けしてお目当てのベンツに乗り込んでみたら、この車にはクーラーがついていなかった。他の車にはついているのに。
 平壌の夏はそこそこ暑い。窓を開けてもぬるい風が入ってくるだけ。
 どおりで「いいよ」と言ってくれたわけだ。
 このベンツ、私には分からなかったのだが、日本じゃまず見かけないものすごく古い型で、何度も修理しながら使っているそうだ。やれやれ。

 そうして迎えた最終日。いよいよ帰国の途につくことになった。
 いつものように朝食をとっていると、Mさんがやけに堅い表情で我々に告げた。
「どうも飛行機のチケットがとれていないようです。私がこれから交渉してきますから、皆さんは心配しないでロビーで待っていてください」
 Mさんが交渉先に向かったあと、我々は互いの顔を見合わせた。
 心配するなと言ったって無理だ。
 我々は今後について語り始めた。
「もしチケットがとれなかったらどうする?」
「どうするもこうするも、次の便までここに残るしかないでしょう」
「それは困る。オレ、次の仕事があるんだよ……」
 それは皆同じだ。
「もしその便もとれなかったら?」
 語れば語るほど話題は暗く重たくなってくる。
 そのうち誰かがこう言い出した。
「人数の半分だけチケットがとれたりして。そうしたらどうします?」
「くじびきするか?」
「いや、技術を持った人間が残るべきだろう。数日とはいえ世話になった国に技術の伝達をして、義理を果たすべきではなかろうか」
「技術ねえ。だとすると撮影だな。な、池端」
「あはははは、何を言ってるんですかKさん。私なんかさっさと撮影から逃げ出して演出に転向した男ですよ。撮影技術ならSさんの方が遙かに上でしょう」
「何を抜かすか! お前は先輩を売るつもりか!? あ、そうだ。こんな年寄りより若いやつの方が未知の環境に適応しやすい。やっぱり池端、お前が残れ」
「いや、Sよ。撮影技術ということなら、お前以外に適任者はいない」
「K。お前の編集技術こそ、この国に役に立つのではないか」
「うっ……。あ、確かお前作画出身だろう? な、A」
「え?! いやあ、僕は動画ですから。あまりお役に立てるとは思えません」
 我々技術屋の醜い争いをプロデューサーが無責任に笑って見ている。
 暴力沙汰になる寸前にMさんが戻ってきた。その口元には笑みが浮かんでいる。
 我々の緊張がゆるんだ。
「皆さん喜んでください。交渉して何とか半分手に入れてきました」
「え!?」
 我々は先日見学した銅像のように硬直した。私の脳裏には様々な思いが、いつぞやテレビで見た軍事パレードのように三個師団くらい行進して行った。
 Mさんはそんな我々に笑顔を向けた。
「はは、ジョークです。ちゃんと全員のチケットがとれました」
 シャレになってねえ! 全然笑えない! 心臓が止まるかとおもったぜ。マジに。

 こうして我々はこの国をあとにしたのだった。
 朝鮮民航機は北京へと飛ぶ。互いの心に疑心暗鬼の思いをのせて。

 おわり

 ※──この文章はすべて事実を元にしていますが、一部に私の記憶違いや、かなりの誇張があるかもしれません。お詫びしますが訂正はしません。

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